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2009年2月

方針決定

やっと自分の中での方針が決定したようです。
もちろん子供の進路のこと。

まず彼の望む野球のことですが、私立に進むメリットは、なんと言っても強豪校で150人もの競争の中でもまれることにつきます。しかしそこには、すでに事前にセレクトされたメンバーもいるわけで、彼がその競争を勝ち残る事ができるかどうかがまず問題です。もしできれば、それは彼が非常に優れた素質と根性を持っていると言うことの証明でしょう。
 しかしだからと言って、そのまま高校野球に進む人は、今現在の高校では、かなり少数派のようです。なぜなら、進学校かつ強豪校であり、さらにセレクション選抜のメンバーが入るのだから。中学進学組でそれなりに進学を考えるものは、軟式に逃げるようです。
 デメリットは長い通学時間に加えての練習と、大人数で進学校であるが故の練習時間の少なさから、ボールにさえさわれない、あるいはきちんとした指導が受けられない日もあり得ると言うこと。ならば、シニアとかボーイズのチームに入った方が、指導付きの練習もきちんとできるだろうし、第一楽しいはずです。それに高校での硬式球への対応も早いはず、と考えれば、彼の望む野球に人生をかけたいという希望へはどうすべきかが見えてきます。

親の望む進学面はどうか。進もうと考えているところは、高校からの入学者もおり、最終的には大規模な人数になります。その中で6年間通わせる事を考えれば、それなりの成果が出なければ、親としては投資倒れでしょう。もちろん中学からの進学であれば、それなりに費用をかけるわけですから、それなりに上位に行ってくれないと困るわけで、追加投資も必要かも知れません。それなら、高校入試まで別な投資方法もあるわけで、長い通学時間はここでもデメリットになります。

それに考え合わせなければならないのは、時間的にも経済的にも無理をすることのしわ寄せが、どこに及ぶのかと言うこと。

それらを総合すれば、自然と合理的な選択は絞られることに気づくべきでした。

しかし、この地域の教育水準の向上は、依然として課題です。
なぜなら、一人自分の子のことだけで教育というものは片付くものではないし、全体を上げることがすなわち自分の子のためになるだけでなく、今後少なくとも十数年は、地域を活性化することになるはずだからです。

自分の方針が決まれば、後は彼が何を望み、どれほどの決心と覚悟をして、どこに進むつもりなのかという問題が残るわけです。

私としては、野球を続けたいにしろ、まだ勝負しろと言うつもりです。

この項簡潔。

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まだ、迷い・・・

あほ親は、まだ迷うわけです。

知りうる状況を客観的に分析し、知り得ない危険性をも考慮して、客観的な選択を探るのが一流の法律家だと私は常々考えているわけですが、これが自分のこととなると、さっぱりできない。
 最近やっとこれは私の欠陥だと認識しつつあるわけですが、それが血のなせる業であるのか、育ちによるものなのかという自己反省は、また別の機会に置くとして、今の状況を深く反省しつつもあるわけです。

そもそも、きちんと状況を客観的に判断すれば、別の受験校選択という手も十分にあったわけです。数少ない模試の判定が多少良かったからと選ぶのではなく、偏差値や人気で選択するわけでもなく、地域的特性や、説明会での今後の方針、そして第一回目の試験であるが故に当てにならない模試の判定状況や、現在の全体的な経済状況から来る親の希望と、その結果としての倍率。そして、結果としての総合的な合格確実性。
考えて合わせれば別の所の方が、通うのも楽だったかも知れない。私の職場からは近かったんだし。あー、あほな親でした。
自分のことで精一杯でした。

しかし、いつまでも放っておく訳にはいかず、
決断の時は迫るわけです。

そんなに好きなら地元中学で、自分たちの好きなクラブを作り、好きなようにやりながら勉強するか。

野球も、勉強も、厳しい競争の中に入り込むか。

実は、本人はすでに志望を固めているようですが、頑固おやじとしては、きちんとそれを表明しない限り受け入れない覚悟です。

地方ナンバースクール出身の私としては、そもそも選択肢がなかったし、地元の公立高校からの大学進学がヨサゲに見えるのですが、その高校で好きなことをやり続け、親の期待を裏切り続けた私としては、あまり厳しいことを言えないはずなのに、それだからこそ、多分に反省を込めて、彼には十代での自分なりの「決心」をして欲しいわけでしょう。

しかし、その公立系の進学もそれほど容易くはない。

顧みれば、産声を聞いたとき、初めて自分の方へ歩み寄るところを見たとき、それだけで幸せを味わったことを考えれば、多分に行きすぎたことを望んでいるとは思いますが、だからこそ、決心の先にある様々な障害を回避して欲しいとも思うわけです。

でもそれは、障害を先延ばしにしているだけかも知れないし・・・。

そもそも、発想の柔軟さや豊かさが、そして責任の自覚と自覚していることの完遂力が社会人としても、また私のような職業を続ける上でも、学歴なんてものよりも要求され必要なことであることを考えれば、それさえ身につけばいいわけだし、そのためには自分の限界に挑戦し続けることが、自分の実力を伸ばす事でもあり、自分の実力を客観的に把握することでもあるわけで。

ああ、悩ましい。
厳しいことを要求しつつ、また一方で、そんなにがんばらなくともとも思ったり。もっとできるだろうと歯がゆいと思ったりしながら、これでも十分だろうとも思ったり。

だいたい子供は別の人格であり、別の人生を送る訳なんだから、後は、自分の気持ちを納得させるだけなんでしょうが。それでも悩む、あほ親です。

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迷いどころ・・・

はてさて、結果が出そろって参りました。
息子のことです。

今のところ1勝2敗。繰り上がり待ちがあるようですが、
当初の私の予想通りという所です。

野球続けての6年からの塾通いとしては、順当な結果でしょう。
しかし親も本人も第1志望だったところが待ちと言うことは、相当に残念な結果です。しかも、絶対的な点数差が現れない試験での結果と言うことで、本人も相当に参っているようです。

さて、そこでどこに行くのかと言うことが、現在の悩みの種です。
少人数でぬるま湯のような現在までの環境から、勉強でも野球でも厳しい競争の中にいきなり放り込まれることに、親として本当に悩みます。

もともとは、そのような競争の厳しさが必要と考えての受験同意でもありましたが、いざ本当に、しかも相当に厳しい環境に子供を放り込まねばならないとなると、二の足が出ない状況です。

電車から降りる人混みに、歩を譲ってしまうような田舎の子が、本当に競争を勝ち抜けていけるのでしょうか。社会に出れば、それは当然と言うことはわかっていても、我が子となると本当に悩みます。

要は本人次第でしょうが。。。

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教育が気になり・・・

ここ数日教育問題に気が向いていますが、
8日朝日新聞の書評欄に載っていた、刈谷剛彦『学力と階層』は読まねばと思った。福地誠の『教育格差が日本を沈没させる』でも指摘されていたことが、現実に起こりそうなことが、もとえ起こっていることをここ数ヶ月の体験で深く実感したからに他ならない。

しかし、その書評欄で耳塚さんの書いていたことに深く共感。
忘れないように、メモしておきます。

「・・・厳密な分析が意義深い知見を生むとは限らない。どのような『事実』を発見しようとし、それをどんな『文脈』にのせて議論するか。この社会を生きるものとして持っているはずの切迫した課題意識と規範的判断がなければ、社会学者は使命を果たすことができない。」(朝日新聞20090208)

社会学者の能力や使命をこれほど端的に表した文章はないと思う。
見ようとしない事実はけっして見えることはなく、その事実に気づいていたとしても、見えないふりをしたり、見えないと言い張るものは多い。たとえ事実を見ても、そのことの意義や問題を理解し、過去から将来にわたる「解決」を考えるには、どのような規範意識を持っているかが問題だ。それを使命とすることの重さを、下っ端の端くれでも、自覚しようと思う。

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惰性で、このブログの題名について

先日ある人から「題名が題名なんで、ここ、なかなか書き込みづらいよ-。」なんて言われましたが、気にしないでどうぞご自由に書き込んでください。

この題名にしたのは、十数年自分のやっていることに自信が持てなかった私の自戒を込めた題名なんですから。

きちんと「法」を「哲学する」と言うことを、私はこれからやりますよ!と言うことなんです。
なぜなら、実は私の扱う法は、普通の法律家の扱う「法」より広く、「哲学する」なんて事も難解な言葉や知識を、さらに自分勝手な論理で振り回すことと間違えている専門家もいるくらいで、どうも私にもさっぱり解らないくらいなものでした。が、

最近、何となくそれに対する私なりの「スタイル」や「関心」が確定したようなので、しかもそれは割と汎用性が高いというか、使い回しのきくことに気づいたので、ちゃんとそれを実践しようという「自戒」で付けたもんです。

あ、学問しかしないというわけではありませんよ。
もともと、勤勉な方ではないですから。
興味の向くまま考えれば、何でも「法」と「哲学」に結びつけられそうかなって感じです。

今まで通り、おつきあいください。

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続きで、教育について考えてみる。。。

私の今住むところの小学校では、もともとの少人数教育に補助員までがつき、ちょっと障害があれば専用クラスが作られるという、おそらくは全国でも非常に恵まれた部類の教育環境にある。

しかし、その学力水準は非常に低い。
人数の少なさとそのことによる固定性、つまりは競争のなさと、親を含めた教育に対する環境的な意識の低さが一番の問題だと思う。この地域の平均値の低さに、今どれだけの親が気づいているだろう。高校進学を真剣に考えるときになって、事の遅さに気づく親が少なければと思う。杞憂に終わればと、本当に思う。

都市圏では、今はそこそこの成績なら、高校進学はできるだろう。職業高校でも大学にすら進学は可能だ。だから、どうにかなる。親の資力さえあれば、親よりも高学歴も可能なのが現状だ。
 しかし、そこで行われている内容が、実は問題なのだ。高校が中学校化し、大学が高校化している。塾通いになれた子供たちは、大学生になってすら、自分で本を読み、問題化し、試行錯誤すると言うことができない。「結論は何か?」「どう暗記するか?」多くの優等生の興味はそれなのだ。「思考する」「発想する」「展開する」なんて事は、二の次なのだ。多くの学生がきちんと講義に出席し、きちんと単位を取って卒業する。しかし、そこで行われていることは、「塾」の延長に過ぎない。「思想」に向き合ったり、「世界観」を獲得するなんて事こそ、大学生に求められた事なのではなかったか。

産業のないところ、農業すらままならないところは何を育てなければいけないのか。人以外の何が、地域やこの国を活性化するのか。そこに投資できる公的な資金があるなら、きちんと考えるべきなんだと思う。豊かな自然に恵まれたこの地域で、体験に根ざした思考力のある子供を育てることは、この地域を活性化させ、そこで育つ子供たちにとっても学歴以上の価値を生むだろうと私は思う。

他方で、今回、久々に予備校講師時代の先輩と子供のことで話をする機会があったが、「学校ブランド信仰」とでも言うべき事態も深刻だ。「将来的に○○大学以下はだめだよね。親がきちんとコンセプトを持って受験指導しないと・・・」的な話に、本当に腹が立ってきた。その方は偏差60以上のいわば超難関校へをお子様を入れたようですが、だから何なんだとも、私は思う。高卒だろうが、中卒だろうが、大学がどこだろうが、頭の回転の鈍いのは、やっぱり鈍い。受験秀才の頭の鋭さと、実生活や学問やる上での頭の鋭さが異なるのだと言うことを、そのお方はやはり理解していない。
 さらに回転早かろうが、どこぞの官僚のように不正を成す頭では、やはり無駄な回転というものだろう。学問続けているから言えることだが、難関大の研究者ですら、どうしようのない人がいるのも現実だ。「受験界」に居続けると、やっぱり発想は偏差値から飛び出られないのだろうか。とは言え、ある程度偏差の高い学校だと、良い意味で刺激し会える友人の出現確率も高いのも現実だし。。。それでも、どこから、どの時点で「知」に向き合うのかが重要なんだと、やはり私は信じたい。

重要なのは、誰が言っているかとかなんて「権威」の問題ではない。「何を言っているのか」という内容の問題なのだ。そうして本当に一流の人は、やはりそういうことを解っている人が多いと思う。

本当の学力とは何か。
親として望んでいるのものは何なのか、子供が望んでいることは何なのか、教育者の端くれとしても、きちんと私自身が考え発信せねばならないことなんだろう。

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本日から試験が始まります。

仕事のことではありません。自分の子供の試験です。

そもそも、中学受験などというものを、一時期それに関わっていた私が、自分の子供に受けさせると言うことなんて、考えてもいませんでした。
 まず、経済的な問題。それに通学時間の問題。そして何より、本人の希望。それらを総合すれば、うちに関しては、そんなことを考える「余裕」も「必要」もないだろうというのが、正直な気持ちでした。

しかし、野球少年が、その野球のために受験しようなどと考えるとは、思いもよらないことでした。

小六4月からの4科目受験対策。
野球はやめない。よって基本的に土日は、朝から晩までの練習。
夏期講習は時に朝8時半からの練習に、週末は午後からの塾通いで、帰宅は夜の10時すぎ。
 プロ的な目で見れば、開始時期が圧倒的に遅すぎです。
生活管理も、あまあまです。
なんてたって、本格4科受講は年末からですから。

ひいき目でないと思いますが、相対的な言い方での「村の秀才」も、進学塾では落ちこぼれです。最初は授業について行けなくて、泣きじゃくっているだけだったようです。

しかし、よくここまで来られたものです。
何とか勝負できるところまで来たのですから。

私の予想は、1勝二敗。
知識検索型の従来型の試験でも、論述課題型の試験でも、所詮は知識なり経験なりの蓄積にかなうものはありません。同じ能力なら、練習積んだ子の方が結果が残せるのは、当たり前のことです。もちろんそのために親は相応の投資をし、受験のプロは結果を残そうとするわけですから。その意味では、大学はもちろん、学校の先生よりはプロ塾講師の力量は、中に非常に優れた人のいることは、私自身が知るところです。(それ以上に、変なやつが多いのも、どこも同じで。)

昨晩も、厳しい指摘をして、本人をへこませたかも知れません。
しかし、それが現実だ。

そして、私も本当は馬鹿親らしく、自分の子だから正しく現実を認識し、それを正面から乗り越えられると信じているようです。

だから望外の結果を願いつつ、その後の問題も考えておくこととしましょう。
昨日Mさんも言っていたけれど、悩みはつきないようで。

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