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平成の学童疎開

今必要なのは、学童疎開ではないだろうか?

「平成の学童疎開」

昭和の大戦時に、空襲を避けるために行われた都会から田舎への子ども達の一時的避難を、この空前絶後の東日本の沿岸部の子ども達が、震災からの復興に目鼻がつき、大人達が落ち着くまでの間、行う必要があるのではないか?そんなことを考えています。

もちろんそれは、一月であろうとかまわないでしょうし、がれきの山が撤去され、仮設住宅が完成し、人々の新しい生活の基盤ができあがるまでの限られた期間と言うことになるでしょう。

がれきの撤去され、新しい生活の基盤のめどがつくまで、
校舎が整い、校庭や校舎での子ども達の活動のめどが立つまで。

小さな子ども達は無理にしても、
ある程度高学年の子にとっては、ある程度は大人にとっても、
必要なことかも知れません。

幸い神奈川県には、研修施設なども豊富にあり、その負担軽減のために閉鎖になったばかりの施設もあります。
一時的にそのような施設も利用し、学校ごと、学級ごとの受け入れは可能でしょう。

もちろん希望がそろっての学童疎開でしょうが、当初予定されていた4月からの授業再開が様々な理由で困難を極める中、検討されて良いことだと思います。

実践活動家としての1回生の平議員が、どこまでできるか判りませんが、すでに検討されていることなのかどうか、検討の余地はないものかどうか、十分に精査の上、各方面に働きかけてみようと思います。

加えて研究者としても注目しておくべき重要点が見えてきたような気がします。

一つは、土地所有権の問題。
財産権が人権上重要であり、土地所有権が財産権の中でも重要なものであることは、常識的でしょうが、私には今まで、欧米的な排他的・永続的な土地所有権というあり方に、どこか違和感をぬぐえない部分がありました。

日本的なあり方。
歴史的な経緯や今後のあり方を含め、勉強しようと思います。

二つ目は、法的な日常と非日常の狭間の問題。
細分化され組織化された現代社会の中で、
ルーティンな活動の重要さは、再確認されたと考えます。
しかしながら、その日常が破壊された、
あるいはその日常の困難が生起している場合の新たなルーティンの構築。

それはもはや法制度の問題であり、
一歩俯瞰すれば、法哲学上の根本的問題でもあると考えます。
世界恐慌や二度の大戦を目の当たりにした法律家達と同じように。

閑話休題

昨日は、食事会話のついでに師匠に、
「夏までにハートvsフラー論争の再検討をします!」
なんて大口をたたいてしまいました。
この前、と言ってもすでに昨年、新著を手に入れたばかりだったから。

能力以上の仕事を抱えるのは、
やっぱり賢くないのだな・・・。
馬鹿な、オレ・・・。

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