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専門家の責任と個人の主体的決定

子供用に選択する必要もあって、
時間をかけて新聞記事を丹念に読む事が多い。
本日の朝日新聞の「耕論」には、
私の専門的関心からも非常に興味深い記事が並んでいた。

その中で、一つは科学技術論が専門の藤垣氏のもの、
もう一つは、韓国の元駐日大使の崔氏のものが気になった。

藤垣氏のものは、私が要約すれば、
リスクの許容範囲・管理決定を専門家だけに任せず、
よりオープンな議論で決定すべき事、
同時に市民も情報武装すべきであり、
個々の市民は自らの判断を優先すべきであるとの主張であると読む。

対して崔氏のものは幾つかの論点を含んでいるが、
日本の専門家・知識人・政府企業のリーダーシップに期待するものと読んだ。

この二つは最初対立する主張の様に見えたのだが、
藤垣氏の主張も、個々の決定には当然のことながらリーダーシップがなければ「決定」ができない現実を考えれば、
それを前提としているものとも読む事ができるだろう。

その上で私が疑問に思うのは、藤垣氏の見解へで、それは、
「では、専門家の責任って、何だ?」
という疑問に尽きる。

細かな技術的情報を一々収集し、評価し、検討し、判断できるだけの「能力」と「時間」を持つのは、どれほどの「普通の市民」なのか?
専門家の討論は、そのような評価検討ができないほどに、権威主義的で、足引っ張りなものなのか?

だとしたら、それこそ問題だろう。

市民を入れたオープンな議論の中でそれらが決定されるとしても、
それは最終的には法的問題となり、
政治家や法律家にその決定はゆだねられる事になる。

日本の政治家はそういう決定ができないほどに、無学であり、理解力もなく、合理的思考もできない人間の集まりなのか?
日本の法律家は、そういう決定の法的整合性を取れないほどに、馬鹿者なのだろうか?

逆に現代のあふれかえる情報を基に、個々人が自由な行動選択を採る
「混沌」を視野に入れてみれば良い。

藤垣氏の主張の先には、私にはアナーキズムが見えるような気がする。
そしてアナーキズムは、
限られた範疇の中でしか成立しない考え方の様に私には思える。

「社会」が「社会」として成り立っているためには、
何らかの「秩序」が、
あるいは「秩序化」が必要だというのが、今の私の考えだ。

しかし翻って、
今の自分が、
今負っている責任を十分に果たし得ているかどうかという話になると、
「忸怩」
たる思いが強い。
正直には。
誰にも見せないけど。

インディー・ジョーンズだったり、スーパーマンだったり、
何でも良いけど、そういう昔に返りたくもなるってもんだ。

話はすでに落ちちゃったのだが、
酒飲んだり、人と話をしたり、特に一人で家にいたりするときに、
この忸怩たる思いが変な形で出る事が多いんだな。
最近。

奥さん、ごめんなさい。
いつものササさんと違うなとお思いの方々、ごめんなさい。

「オラ、おら!こんなとこでくっちゃべってないで、勉強しなさい!」
なんて部屋から追い出した学生さんたち、ごめんねー。

その他にも、ご迷惑のおよびの方、お許し下さい。

できるだけ早く、いつも私が念頭に置いている
イディアル・リアリスト、プラグマティストにもどります。

さて、次の震災対応は、
連休後半に第二回援助として、スポーツ用品を届けに行くつもりです。

講義の新しい形もやりたい、なんて考えていたはずでした。
論文も書こうなんてね。

それらは、明日から次々に!

((^_^;)\(・_・) オイオイ、今日からだろ・・・)

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コメント

私こういうことを書いていると、
学者の端くれとしての論文も
「法的統制」なんて事を扱っている事もあり、
なんかガチガチの統制論者というか、
全体主義的においを感じちゃったりする人もいるかも知れませんが、
根っこは「自由主義者」ですから。

ま、実態を知る人は、納得でしょうが。

投稿: 本人@誤解無き様に! | 2011年4月21日 (木) 20時20分

 まず政治に限って言うならば、政治家の存在意義。それ自体が怪しくなっていると思う。それこそ大衆迎合主義が一番だと思っている政治家が多いのではないだろうか。
 政治家がなぜ必要なのか。私なりの考えを述べるならば、一般大衆には判断できない、決定することのできない重要事項を判断、決定する必要が政治家にはあるからだ。
 ただこれは、全ての専門家にあてはまることだと思う。政治家は政治の専門家であり、法律家は法律の専門家。市民が全てのことを知り、考え、決定することはまず不可能に近いと思う。かりに、全ての決定事項に市民がかかわるのであれば、専門家の存在意義はないに等しい。というよりも価値がないといったほうがよい。
 政治家としての自分に悩んでいるならば、しっかりと(その概念自体が難しいが)、信念(ポリシー)を持った政治を行い、よい社会・日本を目指す一助をすべきだと思う。誰が何を言おうと。どうせ先に死ぬんだし(これは失敬)。
 大学の先生として悩んでいるのであれば、 それはまた違う視点での話しになると思いますが・・・。

投稿: お名前無し | 2011年4月25日 (月) 19時00分

御指摘有り難うございます。
まず最初にお断りしておきますが、政治家の端くれとしての悩みは、別ブログの方でと考えているのですが、私自身がここ1ヶ月半くらいその区別が上手く行かなくなっているようですが、一応こっちは大学の先生として書いていこうと思っています。

で、御指摘の内容ですが、ごもっとも!と頷けること多々です。
確かウェーバーも、でしたっけ?
「政治家は信念」みたいなことを言っていたような気がしますので、また再読してみます。

が、これもお判りのように、
専門家としての責任をちゃんと果たしていない、もしくはそれを放棄するかのような言動が、その「専門家」に目につくような気がするのは、私だけでしょうか。
特に政治かの場合、これも御指摘のように、「大衆迎合」は楽ですし、何と言っても「選挙に勝つ」には必要なことのようです。
もちろん御指摘は、「それでも信念を持って・・・」と言うことでしょうが、信念よりも「票をくれ」というのが政治「や」の本音でしょうし、見向きもされない信念よりは、目の前の金や事業を持ってくる「政治屋」が評価されてしまうのも現状ではないでしょうか。

加えてあまりに上手い「政治家」は、「鼓腹撃壌」の故事ではありませんが、「一般大衆」からは遠い存在でしょう。
私なんかは「堯」なんかには遠く及ばないわけで、そういう意味では、問題解決できても/できなくても気に病んだりしますし、そもそも問題発見できなかったりすれば、それも悩みの種になっちゃったりするわけです。

ま、政治家としては、それでも思い通りやろうと思ってますし、信念なるものが私にあるとすれば、判って頂ける方々もいるだろう、そのくらいの批評眼を持つ住民だって、少なくはないぞ!(特に小さな共同体だから、村は、)なんて、期待するというか、恐れを持ちつつというか、やっているわけです。
でも、正直に言えば、やっぱり一人じゃ苦しい、と言うのが本音です。
何回か書いていますが、議会内の会派形成ができて役割分担や協業ができたり、分野ごとにブレーンがいてくれたらなあ・・・と思うことしきりです。どちらも私の人徳の無さ故なのでしょうが。

大学の先生としての悩みは、
「実践智」に関わる法学分野ですし、中でも「実践哲学」を専門とするのが私の領域だと思っていますので、今自分のやっていることをなかなか対象化できないこともあり、悩みはさらに深いのかも知れません。
ただ感覚的に今思うのは、「本当に良い法律家は、良い政治家たり得る」だろうとは思います。アメリカのように。
そして同様に思うのは、少なくとも大学の先生として、そういうものをきちんと評価できるくらいの能力を学生に養ってあげるのは、専門的知識を教え込む以上に、基本的な教育者としての役目だろうと言うことです。

イヤイヤ、長いお返事になり申し訳ありませんでした。
良い薬になりました。
有り難うございます。

投稿: 本人@被災地再支援準備中! | 2011年4月26日 (火) 13時10分

 コメントを見ているとどうも学者先生の者が多いようですが、私は一配管工です。世間では手抜き工事や工事ミスがあれば、業者は徹底的に追及され責任を取らされます。もちろん損害に対する迷惑料を請求されます。それはプロだからです。私は配管のプロである以上ミスは許されません、と同時にお客さんに頼まれたからといって無理な工事はいたしません。専門家が責任を取る意思を持って判断するなら 素人か口出す必要はありません。世界に名だたる優秀の学者たちの判断は誤っているとは思いません。ただ責任をを取らないだけです。法的責任がない以上、
優秀の学者連も、ガードしたの酔っ払い談議と変わりありません。
 法哲学の専門家のページのようですが、行為と責任についてどう捕らえるのですか。
 私は配管工ですが、責任に取れないことは請け負いません。結果お金は貰いません。
 経済産業省の役人 東電の社員 (プロとしての責任)
 旧自民党政権 誘致を認めた自治体(政治的責任)
 法律は強者に有利なように作られているようです。
 法哲学者の意見をお伺いしたいものです。

投稿: アッキー | 2011年5月15日 (日) 17時31分

アッキーさん、書き込み有り難うございます。
抑制のきいた書き込みですが、言わんとしていることは、深刻に受け止めています。

実務に携わるものは、その評価としての責任が実際の仕事に直結していること、
そして、結果として受け取る金銭にもその評価が及ぶこと、そしてさらには生活にも・・・
よく判ります。

私の父も兄も同じく建設業を営んでいた/いるので、職人さんの評価が仕事に直結し、
その評価が絶対的なものであることは、身をもって知っているつもりです。

その上で、おっしゃるように
政治家とか、学者とか、お役人の中に、どうもそういうことを理解していない方々の目につくことに、私も同様にいらつくわけです。(私もその中の一人と言えばそうなんですが、それ故に・・・)

ただ、そんな中でも地道にと言うか、愚直に仕事をやり遂げようとしている方々のいることは、またどの領域でも同じなのではないでしょうか。

問題は、おっしゃるように、それが職人さんの分野と違って、評価に直結せず、いわば責任逃れが容易なように見えると言うことでしょう。

政治家は選挙がありますが、
有権者がそれをきちんと評価できなければ、逃れ放題です。
学者は、
せいぜい学会の評価というものがありますが、よっぽどでない限り職を失うというわけではありません。学会にも出ず、学生相手に偉そうにものを言っていれば、それで終始することは可能でしょう。。。
お役人は、
個人としての責任は法的にも守られていると言って良いと思います。

「法律は、強者に有利に作られている。」

もっともな指摘だと思います。
かつてアメリカでも、そういう指摘の下に、様々な理論的指摘や反省が行われた事があります。しかし私の見るところでは、日本での影響はそれほどではなかったと思います。

法哲学者の仕事というのは、地味で即効性のないものが多いのですが、
改めて、きちんとやらねばいかん!
と、私も思う次第です。

もしかしたら、このご返答も言い訳的に聞こえるかも知れませんが、或いはなっていないとお思いかも知れませんが、「おっしゃる通りだ。」「私も愚直に、地道に頑張ります」というのが、当面のお答えです。

教育者の端くれとしては、
アッキーさんのように、自らの仕事に誇りを持ち、他人の評価以外に自らの高い基準が持てるような、そんな社会人を育てるために頑張りたいと思います。

法哲学者の端くれとしては、
法制度全体が、なれ合いや責任逃れに利用されるものではなく、より高い理想的な社会統合のための、より有効な手段になるように、きちんと勉強し提言できるようにしたいと思います。

誰でもそうなのかも知れませんが、
楽なのは、気の合う内部での馴れ合いに終始することです。
アッキーさんのような御指摘は、厳しものであればあるほど、考える種になります。
有り難うございました。
今後ともよろしく、お願い致します。

震災の援助に行っており、お返事が遅れました。
これも、申し訳ありませんでした。

投稿: 本人@支援帰りでまた忙殺 | 2011年5月17日 (火) 12時04分

 大変解かりやすいご指導ありがとうございます。 
 私は法については全くの素人です。
 一般の国民は私と同じ用に無知といえるでしょう。
 しかし日本人である以上日本の法律に束縛されます。
 ただ 法は知りませんが、道徳は知っています。
 法と道徳が同じならば問題はありません。
 しかし明らかに法と道徳とは違います。
 道徳は社会生活の中で時代を経ながら社会生活円滑に営むため必然的に生まれたもにだと思います。
 人が生きて生活していくことの中に道徳の学習は含まれていると思います。
 共同社会に生きている限り人は 同等は学び続けて居ます。
 そのため 時代・社会・環境の変化と共に変化していきました。
 十年一昔と言いますが、道徳は社会の変化に伴って変化し続けます。ほんの数年前に批判された事が今は認められたり、その逆もあります。
 では法律は何を基点にしているのでしょうか。
 道徳を基準に罰則を加えたものでしょうか。
 暴力装置としての国家権力を基点に考えざるを得ないと思います。
 国家構造の安定目的の基点を設定することから始まると思います。
 道徳は社会安定に大変大きな貢献をしていますが、国家単位に措いて 地理的時間的整合性が取れないと言う問題があります。
 整合性を持たなければ法として意味を失ってしまいます。
 整合性を確保するために切り捨てていく民衆道徳をどう拾い上げるのか。法律を作る者(一部法曹)に委ねているのが現実だと思いす。
 そこに意識のズレが生じていると思います。
 
 勝手な思いを羅列いたしましたが ご指導願えたらと思います。 
 

 
 
 

投稿: アッキー | 2011年5月18日 (水) 10時44分

法と道徳の問題
この問題は、法哲学のホーン岬と言われるような基本的な問題とされています。

ご指摘のように、「法」と「道徳」がどのような関係にあるのか、はたまた関係あるのか/無いのかの問題です。
大ざっぱに分類してしまえば、関係ある/関係づけようとする人は「自然法論(者)」と言うことになり、関係ない/一線を引こうとする人は「法実証主義(者)」というように二分するのがステレオタイプな法学者の二分法です。

じゃ私はどうで、どう説明しますか?と言う答えに対しては、簡単に以下の説明でお答えしようと思います。

串に刺さった団子を思い浮かべて下さい。
それぞれの団子の大きさは、ここでは置いておきます。

この団子、見る角度によっては重なったり重ならなかったりするように見えると思います。
つまり説明軸を設定することによって、その区別を論じることは可能であり、重なりを説明することも可能と言うことになります。もちろんその場合、何を「法」と定義し、何お「道徳」と定義するかも重要です。そしてお気づきのように、「串」があること、両者を貫く原則のようなものがあるのでは無いかと私が考えていることも、私の説明の特徴になるかも知れません。

文面が長くなりますので、禅問答のようなヒントで終わりますが、アッキーさんのご指摘の諸点を整理するためにも、このモデルは使えるのでは無いでしょうか。

もうちょっとだけ補足すれば、
異なった道徳観が対立するような社会では、法は最高の道徳でなければならず、それによって社会が安定化したり、より理想的な方向に導くための道具となるでしょう。
しかし同時に、法は最低限の道徳にしか過ぎないこともあります。なぜなら、みんながある種の道徳に染まった社会は、暑苦しいでしょうし、みんなが完全に管理された社会は、気味悪くもあります。またある種の「多様性」を確保する社会の方が、「進歩」や「発展」を担保した健全で、良い社会ではないかとも私は考えます。

具体的な例で考えてみれば・・・と行きたい所ですが、長くなりますので、ここいらで御容赦下さい。

普段の講義の担当は「憲法」が多く、本当はきちんとお話したい所ですが。
久々にご質問頂き、うれしさ半分、この限られた字数でどうお答えしようか、恐れが半分でしたが、非常に刺激になったことは事実です。ありがとうございます。

さて、ご関心のことをさらに詳しくと言うことであれば、矢﨑・八木編の『法哲学入門』なんてのがお勧めかも知れません。古い本で、今は古本屋位でしか手に入らないかも知れませんが、私も最初はこの本からでしたし、神田の古書店周りは楽しいものです。

話題と言えば、NHKで良くやっているマイケル・サンデルの番組とか関連本もアッキーさんの関心に合うかも知れません。サンデルに関しては、私もちゃんとお勉強しようと思っていた矢先ですので、宿題出された生徒よろしく、「やらねばならぬ」義務感が生じますので、これも大歓迎です。

お暇な折には、またご意見ご質問下さい。

投稿: 本人@休憩時間 | 2011年5月19日 (木) 11時56分

 ご丁寧なご指導ありがとうございます。紹介いただいた「法哲学入門」を足がかりに挑戦してみようと思います。
 色々と疑問だらけなのですが、少し自分で調べてみようと思います。
 この手の本は全く読んだことがないので理解できるかどうかわかりませんが、具体的疑問点が見えてきたら又ご指導願えたらと思います。
 有難うございました。

投稿: アッキー | 2011年5月19日 (木) 20時56分

 今年の暑さには空調屋としては大変ありがたいことではありますが、震災以降止まっていた東北の工場が稼働始め、部品調達が可能になり 5月末から急に忙しくなり始めました。今年は仕事を減してゆっくり読書の年にしようと思っていたのですが、なかなかそうさせてくれません。「法哲学入門」も目は通してみたものの 問題提示までには程遠いところです。
 ただひとつ疑問なのは、「立場」の問題です。ヘーゲル・カントの法概念然り その他諸々の著名人(その他アリストテレスくらいしか知りません)が 自分の立場で語られてもあまり納得できません。私が配管工でなく学者なら納得できるかもしれません。
 私たち工事業者は、客の立場・メーカーの立場・現場監督の立場・その他 いろんな立場で正義は違います。
 立場が変われば正義は変わります。
 「法の正義」と言う言葉をよく効きますが、何処に立っての正義ですか。「小林和之」先生の文章に(ネットの書き込みだったか記憶にありません)また色んな所で 「多数決はベストではないがベターである」と言う言葉をよく見ます。
 正義は常に変化します。1億の人間がいれば1億の正義があります。そのベクトル総和が1億人の正義だと思います。ただ立場を認識できない人(正義を持たない人)があまりにも多いのでベストの正義はなかなか難しい。
 私はよりよい空調設備をユーザーに説明し説得します。
しかし最終決定はユーザーの選択です。たとえプロから見れば過ちに思えても正しい選択です。自分の正義を守るためには仕事を断るだけです。
 少し傲慢な気もしますが私の今の思いです。問題点を御教え願えたらと思います。少し時間が空いてきたので「法哲学入門」をゆっくり読もうと思っています。
 
 

投稿: アッキー | 2011年7月11日 (月) 23時56分

で、取り急ぎ、要点のみ。

法の正義とは何か?
いつも悩んでいますが、私の記憶では、『法哲学入門』ではあまり触れられていないフラーとドーキンを思いつきのまま記せば。

フラーは、司法の核心を「互恵性」「統合」に置いていると思いますし、
ドーキンは司法=裁判の核心を「相互配慮」に置いていると私は読んでいます。(この辺をちゃんと説明したものはないと思いますし、誰の仕事かと言えば、私を含めた「学者の責任」でしょう。)

その事から考えるに、
どれだけ「他者の正義」に配慮できるかが、
「一個人としての正義」ではないでしょうか。
もっとも、司法における正義は、「一個人」を離れねばならないのですが。

より具体的・個人的には、
アッキーさんの配慮が、
ユーザーにきちんと伝わっていることを前提とすれば、
それは、正しい正義の行使・実現だと思います。

投稿: 本人@ウスケボなめて、韓歴ドラマ見て寝ようと思いましたが、,, | 2011年7月12日 (火) 00時12分

 毎回指導ありがとうございます。
 ドーキンをドーキンスと間違ってちょっとびっくりしました。
 「裁判の正義」「法の帝国」など覗いてみようと調べて見て値段の高いのに驚きました。後は近所の図書館で探すしかありません。お勧めの本があれば教えてください。
 司法における正義は、配慮で解決出来る範疇とは思えないのですが、正義の主体は大衆であり大衆が理解できる正義が法の正義ではないのですか。大衆の利害が正義ではないのですか。大衆の利害は往々にして矛盾が含まれています。
その矛盾を含めて正義では無いのですか。

投稿: アッキー | 2011年7月14日 (木) 14時10分

リチャード・ドーキンスですね。
この人の主張も法哲学に全く関係ないというわけでもありません。
「法」の概念規定が難しいので、「政治」の領域や「社会学」の領域、「生物進化論」も重なる分野と言えば言えることになりますし、どちらかというとそっち方面に興味の対象があるような人も学会のの中にはいるような気がします。
「法社会学」なんて分野も隣接分野にありますし。

ただ御指摘の点にも関わると思いますが、
私は「法学」あるいは「法哲学」という時の「法」を、裁判所の機能=司法を中心に考えようとしています。法が最も鮮明に現れる/現れねばならないのがそこだと考えているからです。

そこでドーキンなんかが出てきたわけですが、
ご心配するような結果にはなっていないと思いますよ。私の記憶では。
確かに高価な本ですので、図書館利用が良いでしょう。
最近では公立の図書館にも置かれているのを目にしたいこともありますし、お近くに大学があれば、簡単な手続きで利用できるようになっているのが、最近の大学の周辺住民サービスの一環です。

ただ、難解であるかも知れません。
小林先生(私もお見かけしたことがありますが、面識はありません。格が違うので。。。)などにもご質問なさると、より中立的な理解になるのかも知れませんね。

投稿: 本人@あじ~ | 2011年7月15日 (金) 11時56分

 何時も有難うございます。
 今日は休みだったので 今自分の思っていることをまとめて見ました。数式には慣れていますが活字は全く経験ありません。内容も無知と笑われるかもしれませんが、批判していただければありがたく思います。
   法が正義であるならば
もし法が正義であるならば 順法生活を送る限り社会は平和が維持されるはずである。また一般大衆が道徳的生活を逸脱しない限り争いは起らないはずである。しかしそうはいかない。人は法の正義以前に自らの内なる正義を持っているからである。
「盗人にも三分の理」実に真を得た言葉である。盗人なりの理は全て否定できるものではない。もし徹底的に軽犯罪を取り締まれば、平和な理想社会が出来るとは思えない。きっと18世紀のドイツ警察国家に近いものが出来るだろう。戦前の日本の警察も同一の体制に思える。だが強盗だの殺人となると話は別である。三分の理もないと人は考えるからである。そこには人それぞれ違った曖昧な一線がある。法律で教師の体罰が規制されているにもかかわらず、いまだになくなる気配は無い。明確な一線を設けても徹底できないのは人それぞれの正義を持って行動するからである。もし前向きに理解するとすれば、明治以降戦前まで続いた体罰教育あこがれた時代遅れの大人の感性である。道徳観の変化に取り残された人たちである。
ただ見逃してはならない重要な事は、自然に出来上がったモラルではない。社会教育と法的整備によって変化したものである。即ち先行するイデオロギーの存在がモラルを作り上げる。
もうひとつ重要な点は利害である。体罰を容認した方が利害に見合った時代から、容認しないほうがより有利であると考えるからである。
人はそれぞれ自分の価値観を持っている。しかしそれは大変曖昧であり常に変化する。そして その最大の要因は利害であると私は思う。
法の正義が、自然科学上の審理であるならば正義派存在するかもしれない。人それぞれ立場が違うと利害は違う。立場の違いは正義の違いである。人の数だけ正義は存在すると言っても過言ではない。
外交問題を見れば誰にでもわかる。戦争は正義と正義の戦いであり、太平洋戦争は日本の正義であった。隠れた利害を正義の名に置き換えて正当化していった。ベトナムでは5万の人命が採算割れを起こし、イラク戦争では 五千人の命で採算を考えなければならなくなったのであろう。もし絶対的正義が行動原理であるならば玉砕にまで至るであろう。アラブのテロリストの行動原理は絶対正義論かもしれない。私には理解できない。(私には理解しがたいだけで地域特有の文化的利害があるのであろう)
戦争は正義によって戦われるものではないことを強調したい。
最後に利害を決定するのは「立場」規定できるであろう。国家間において立場の違いは大変判りやすい。軍事・経済・立地・人口その他簡単に理解できる。アメリカの大統領が変わったからと言ってアメリカが変わるわけではない。一要因が変わったに過ぎない。
また日本では、政権交代により多くの国民が政策の変化を期待したにもかかわらづ目立った変化も無ければ選挙時の公約すらどこかに消えてしまった。大国日本にとって政権交代すら社会を変革する力は微々たる物である。「大国を治めるは小魚を似るが如し」
とは上手く言ったものだ。細やかな配慮は訳がわからなくなる。中曽根総理が言ったことを民主党が行っている様だ。ぐちゃぐちゃに成ってしまった。

1) 利害の裏付けが無い正義はまやかしである。
2) 利害(正義)は人それぞれに違う。
3) 利害(正義)は常に変化する。
4) 立場によって利害(正義)大きく影響される。
人材を選ぶとき 人柄で選ぶと言うのをよく聞く。企業では教育可能な人柄であるとは重要である。また企業の中核を担うべく人材となると、能力だけではなく社会的地位、家族、など能力以外の要素も選考の要素となる。(コネは重要である)
   大変ご迷惑をおかけいたします。

投稿: アッキー | 2011年7月16日 (土) 00時08分

グロッキー気味なので、手短に。

まず第一に、前項は複数テーマがそれぞれに論証不足のままに展開されています。論旨・論理構成を明快にし、組み立て直しが必要と思われます。
 そのためには、まず言いたいことを明確化しましょう。私には、複数の主張があるように思われます。それが一つのテーマに収斂するとお考えなら、まさに「論理構成」が必要です。

第二に、それぞれご自身が「実証」と思われて挙げらている事柄が、他者から見ても実証に耐えうるか、再考が必要と考えます。

第三にアッキーさんのご主張が、
人=立場によって異なる「利害」=「正義」
であるとお考えなら、「法の正義は、それとは異なる」とお答えしておきます。

ではどう異なるかのお答えは、ここではしません。
その理由は、
第一に、こういうやりとりが、私の場合は特に、学生のリポートに利用され、自身で考える手間を省くことに利用されることを危惧しますし、
第二に、参考資料は提示済みです。
第三に、アッキーさんには、私は直接やりとりできる連絡先をお知らせ済みです。が、ご自身のご連絡先は頂いておりません。
細かく指摘しようとすれば、それはこのスペースでは不可能ですので、きちんと指示箇所を特定できるようなデータのやりとり方法を工夫しなければ、なりません。
第四に、私が本日は疲れています。
受験生を筆頭に子ども達の子育てにも責任を持ち、大学仕事も(給料と身分以上に)こなして、地域の環境にも責任を持ち、子ども達が参加する活動でも、それ相応の責務を果たそうと思うと、土日ですら休みではありませんので。
お許し下さい。

投稿: 本人@炎天下疲れ。。。 | 2011年7月16日 (土) 21時58分

 法的正義と主体としての個人又は団体にとっての正義には本質的なカテゴリーの違いがあると思います。あまりにも焦って混乱状態のまま書いてしまいました。ここ数年前から哲学に興味を持ち 知らないままに古典と言われている哲学書を少し読んでみました。しかし全く判らない(語意がわからないのは大きな問題です)。しかしマルクスはなんとなく納得する部分があります。それは立場の違いではないでしょうか。それが「価値」に興味を持ち始めたきっかけです。価値がどう評価されているかは、現実的法に委ねられていると思います。
 私が知りたいのは、 法的価値基準は何処にあるのか、個人的価値と国家価値とをどう捉えるのか、そこが私の疑問です。道徳の問題も私には、同一線上に見えてきます。
 週明けにはドーキンが届くので、時間をかけてゆっくり読もうと思っています。それからラートブルフの名前がよく出てきますが、お勧めを紹介願えたらと思います。
 連絡先届いたでしょうか。

投稿: アッキー | 2011年7月18日 (月) 11時42分

哲学に興味を持つなんて、ご愁傷様です。。。  coldsweats01
まして法哲学なんて。。。

って、せっかくの意欲をそいでは申し訳ないですが、何か公式のような「正解導きブラックボックス」ようなものは、この分野には無いと思って下さい。
日々考え続けること。
それのみが哲学にも、法哲学にも、まずは必要なことだと考えます。

ラートブルフは『法哲学』もありますし、『法学入門』なんてのもあります。
著作集があるので、一気読みが一番だと思いますが、
法学分野に良くあることで、『入門』が全く入門になっていないことが多いようです。

哲学系は良くあることで言葉の問題が、まさに難関で、一人の著作につき、全体像を描けるほどに「あれこれ」を読んでいくことによって、少しずつ理解が深まる=そういうことか!という感じで視界が開けることが多いようです。

連絡先は、届いておりません。よろしければ、再送をお願い致します。
要請があれば、私も致します。

投稿: 本人@一息・・・ | 2011年7月21日 (木) 16時08分

 先週からドーキンに挑戦しています。息子が手配して借りてきてくれたのですが、あまりにも多すぎて戦意喪失です。来月半ばまで格闘は続くでしょう。論理文章になれないので中々理解しがたく、その上初老の記憶力低下で中々進みません。 
 「平等とは何か」を眺めているのですが、日本と違うアメリカの特異な法と文化の知識の無さに苦慮しております。ただ実例を中心にして説明は分かりやすいのですが、実例事態を知らないので説明が浮いてしまいます。
 取りあえず面白いところも幾つかあるので耐えてみようと思っています。
 先日「方と社会」広岡隆を買ってきました。何処かの大学の教科書のようですが、今の私には大変よく分かる本でした。レベルに合わせたものを紹介願います。
 連絡ですが、後日子供(研究生)の力を借りてお送りいたします。

投稿: アッキー | 2011年7月25日 (月) 12時31分

久しぶりにコメントいたします。(ご迷惑かもしれませんが)
先月末よりご指摘いただいたドーキンを読んで見ましたが理解するには先が思いやられます。今はラートブルフ「法学入門」と小林正弥「サンデルの政治哲学」を借りて込ました。
 来月はフラーとロールズに挑戦しようと思っています。
 我々庶民に豊と平和を与えるのは 正義とか権利とかいくら語ったところで実感が感じられない。我々一般庶民の経済活動は モラル(一般道徳)と力関係で成り立っています。正義も権利も一般道徳が支配しています。正義が成り立つには力の均衡があって始めて成り立つと思います。「力」をどう補正するかが理解できません。もう少し色んなものに挑戦しようと思っています。
 アイデアーあれば教えてください。

投稿: アッキー | 2011年8月25日 (木) 01時01分

お返事が大変遅くなり、申し訳ありません。
気軽に書いているこのブログでもおわかりかと思いますが、
全くかっこよくない日常で、忙しく過ごしておりました。
(って今も過ごしていますが。)

まず学習の方法ですが、
この前メールでもお伝えした通り、
まず一人の(できればビッグネームの)著作とじっくりと対話するのが良いと思います。ここで言う対話とは、できればその関心のある著者の全著作と著者の時代背景などの理解を深めるための関連著作、著者を扱った研究書を含めてのすべてを、何度も得心のいくまで読み返したりすると言うことです。

その過程の中では、関心対象の著者が外国人であれば、著者の言語でも考えてみると言うことも必要になるかも知れません。

さらに、自分の得心が独りよがりにならぬよう、
誰か関連分野の人と会話することも必要でしょう。

ですから、お時間が許せば、大学などの講義の聴講をお薦めしたのでした。

しかしながら学問は、
それだけで完結してしまうと、単に「理念に(で?)遊ぶ」で終わってしまいます。
その事の頭の体操としての意味も私は否定するものではありませんが、私自身は「法哲学」はそれだけに終始してはならないものと考えています。

だからこそのアッキーさんの「力」への関心だとは思いますし、
その関心を共有する思想家もいると思いますが、
まずは、上記のお勉強を私はお薦めします。

優れた法思想家が、頭の体操ばかりしていたとは思いませんが、
我々凡人には、頭の体操をしなければ追いつけないほどの緻密な思考をしていたとはいつも実感しますので。

投稿: 本人@一息入れ中 | 2011年9月 8日 (木) 14時51分

度々の助言有難う御座います。今は紹介いただいた書籍をただ乱読しているだけです。まだまだ闇の中です。ただ正義に疑問が少し見えてきました。乱読しながらも楽しみが見えてきました。読むのが遅いのと図書館に返さなければならない事にいらだっています。読み返したいと思ってもどうにも成りません。活字の慣れていない私には、一度では理解できません。
取りあえず手当たりしだい乱読して観点を定め再度読み直そうと思っています。
 講義の聴講をお勧めいただいたのですが。全く方法が分かりません。元々学校は名古屋だし短期間しか通っていません。また友人は理系ばかりなので畑違いです。一般教養程度の知識を得るまではじっくり一人でがんばろうと思っています。良いアイデアーだあればご指導下さい。
 今週はイエーリングを呼んでいます。同時のカントの道徳論に挑戦しています。日本人(私)には神の下での正義は納得しがたい。
 大学の授業も始まりお忙しいでしょうが、ご指導いただき有り難く思います。

投稿: アッキー | 2011年9月10日 (土) 18時08分

乱読も大いにけっこうだと思います。

大学授業聴講については、
大抵ほとんどどこの大学も歓迎していると思われますので、
お近くの大学に絞り、(法哲学がお望みなら)法学部のある所を
調べ(ウェブ検索などで大学の学部を見れば、すぐ判ると思います。)
その大学に「法哲学」が開講されているかどうか(ない所もあります)
事務局に電話をすれば、一発です。

同じ電話で聴講手続きに関しても教えてくれるでしょう。

学問に年齢はないですね。

頑張って下さい。

投稿: 本人@忙しき週末 ort | 2011年9月10日 (土) 21時11分

 何時もご指導ありがとうございます
 授業聴講の件は来春までにゆっくり考えようと思っています
 今色んな本を探しているのですが下地になる知識が無いので本を探すのも大変です。今は碧海純一「法と言語」を呼んでいます。お勧めがあれば教えてください。

投稿: アッキー | 2011年9月14日 (水) 21時37分

『法と言語』は難しくありませんか?
同じ碧海先生なら、法哲学概説があります。
好みもあるのでしょうが、私は新しいものよりは古いものの方を読んでいました。

最近不勉強ですが、学生時代によく読んだのは、
同じ碧海先生や伊藤・村上先生などの書いた『法学史』
や加藤新平(以下敬称略)の『法哲学概論』、団藤重光の『法学入門』
田中成明の『法学入門』や『法理学講義』などだったと思います。
もちろんこれらは、
今でも必要に応じて読み返すこともあります。
最近見つけたお手軽なものとしては、
深田・濱編『よくわかる法哲学・法思想』なんてのは、どうでしょう。

学ナリガタシです。

法哲学を教えるなんて事は、考えもしなかったので、良い刺激になります。
そろそろ、私もちゃんと考えてみます。

春からのよい刺激材料も見つかると良いですね。
頑張って下さい。

投稿: 本人@昼休み・・・ | 2011年9月15日 (木) 13時19分

碧海純一「法と言語」は難しく分からないところもたくさんあるのですが、言語理論と法哲学の部分は大変面白く読みました。言語分析中での形而上学批判は 雲で隠されていた十五夜の輝きが暗い夜道を照らしてくれた思いです。これから少し本を読むのが楽になりそうです。
 何かうれしくなって書き込みしました。
 今まで読んだ中では イエーリング・ラートブルフ・碧海純一が理解出来たかどうかは別にしてこの3人の書が僕にとっておもしろ本です。
 推薦いただいた書籍を今図書館のHPで探しています。ただ碧海純一「法哲学概説」が見当たりません。
 来週は仕事が忙しいのであまりやめませんが、月末には読み終わると思いますので、また推薦願います。

投稿: アッキー | 2011年9月16日 (金) 20時35分

 久しぶりに書き込みます。
ご指導いただいた書籍を自分なりに読んでみましたが、「法の正義」が気になってなりません。色んな正義が語られていましたが、「人間の正義」と「法の実践的正義」に集約できると思います。
 アリストテレス以来多くの聖人哲学者の語る正義はどうも納得しがたく思います。カント(純理)の理性(アプリオリ)はプラトン(イデア)を厳密に論理化に思えます。アプリオリの否定から始めなければ成らないと思います。ヘーゲルについても同じような感がありました。時間を経てもう一度挑戦してみようと思っています。
 もう一点「実践の正義」についてですが、冤罪事件を通して多くの問題が見えてきました。これは具体的で分かりやすくまた解決の道も近いと思います。唯この問題は法曹界の優秀の先生方にお願いするしかありません。(優秀な人たちが作り出した犯罪のようにも思えますが)取りあえず「人間の正義」をテーマに学習しようと思っています。
 

投稿: アッキー | 2011年10月14日 (金) 18時22分

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