« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »

2011年9月

えせインテリに気をつけよう・・・

本日の朝日新聞、池上彰の「新聞ななめ読み」で気になった一文。

「深刻な事態はなるべき見ないようにして、それに触れた発言だけを問題にする。これでは、事態に正面から取り組む人は出ません。結局は事態を解決する事を遅らせる事になりませんか。」

あの鉢呂発言の一連の報道に関する評論の最終の一説です。

別に鉢呂さんを支持するわけも言われもないけれど、おそらくは多くの方と同じように、私もこの一連の動きは、変な事だと思っていました。

しかし、考えてみれば、これに類する事の何と多い事か。

リアリスト=(イディアル?)プラグマティストの私としては、
形式主義者の愚挙との対立とこの問題を再定義せざるを得ません。

単語の一語一語の問題よりは、その議論全体の意味だろう?
そしてその議論の持つ論理性の確かさだろう?

それは、まずはその主張の全体的な意味づけだろうし、前後の脈絡における位置付けだろうし、もう少し長い目で歴史的に位置づけた評価だろうし、何より政治的な問題解決に資するものであれば、現実の住民生活や実態に根ざしていてるかどうかだろう。

しかし、この種の類の批判って言うのは、実に多いんだよね。

誤解するのはまだましで、
言ってもいない事を、さも言っているように批判する。

曲解どころか、ねつ造まである有様だ。

新聞報道から、果ては家庭内紛争まで。

どっちが果てだか判らんが、
「真意」を理解するのには、それ「相応の能力と努力を要する」という事だろう。

で、家庭内では、
その努力をどちらが果たすべきか?

それも、難しい問題だ。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

「君子」だったら、豹変しなさい!?

戸羽太『被災地の本当の話をしよう』を先ほど読了。

小さい頃から父母や兄姉たちとも訪れた陸前高田の高田松原。
震災後、
半島の付け根にある小さな小学校に支援物資を届けに行った時のすさまじい光景。
五月、二度目に行った時に圧倒された臭いと埃。

記憶と五感に焼き付いた感覚が思い出され、
著者と同じような自分の子供たちのことも考えるに、第一章は特に、
涙無くして読めないものだった。

稿中立ち現れる、信じられない議員や官僚たちの振る舞いや、
言わずもがなの「縦割り」に立て籠もる「小役人」たちに、
「そこでもか?それでもか?」と憤りながら読んだ所もある。

「東日本大震災復興構想会議」とか「復興庁」とか
すでに立ち上がっているはずの行政組織も、何をやっているんだ?とか、
多くの疑問もわき出てくる。

「被災者は24時間被災者」であり、
首長たちは住民の希望を繋ぎ止めるために
「2年間での復興」「8年での復興」をそれぞれ口にしているのに。

しかし、同時に思うことは、指導者=リーダー像について。

無私にして、文字通りの献身的行動。
「政治家はみんなを幸せにしなくてはいけない」と素直に思える感性。
自ら以外の被災者の多くの悲しみをも思いやる共感力。
人脈をも将来復興につなげて構想する創造力。

不謹慎ながら、非常時であるからこそ
著者である戸羽氏の卓越した指導者像が浮かび上がったのでは?とも思う。
しかしながら、
それらは、「平時」においても必要とされるものだろう。

非常時において、それが卓越するのは、誰の目にも明らかだから。

「平時」においてそれらは、
利益共同体を一つにする側にとっては不利益になり、
心配性であり、誇大妄想家だ。

瓦礫の山や荒廃したふるさとを目にし、腐敗する臭いをかげば、
誰もが、今ある現状の危機的状況を体感することができる。

しかし、
霞ヶ関にこもる役人に現地の惨状がリアルに認識できないように、
低レベル放射能の恐怖や崩壊しつつある日本の政治的状況や官僚や教育も、
体感することはできない。

どこかが「危機的状況である」ことを共有することすら難しい。

「ある認識」を変えることは、めがねを掛け替えることよりもずっと難しい。
掛け替えてしまえば、もっとはっきり見えたり、
サングラスを変えれば、色まで変わって見えるのに。

だとすると、本当に指導者層にとって必要な最低限の能力は、
「自らの認識に拘泥しないこと」なのかも知れない。

「君子」は、豹変す

この言葉、本当は、そんな所に本当の意味があるのかも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

「著作権」ってやつは面倒だ!→いやJASRACか?

そろそろ卒業を控えて、お父さんお母さん方の撮った写真や動画を編集し、
みんなで楽しみましょう!
なんて活動が増えていると思う。

しかし、これが違法なんだと。
http://www.jasrac.or.jp/info/dl/video001.pdf

それが営利目的の作成会社のものは論外として、
そもそもボランタリーに作成されるこれらのものが、
「誰の」どのような「利益」や「権利」を侵害しているというのだろう。

おまけに、JASRACへの届け以外に、レコード会社の了解までいるとは。
(届け出と了解の先にあるのは、もちろん金銭支払い!)

流れる曲やアーティストが記憶に残り、そのファンになるって事も多いはずだ。
今年の曲が、その時々の曲が、バックに流れることによって得られる潜在的な需要の方がアーティストにとっても制作会社にとっても、利益は多いのではなかろうか?

著作権の存在しない無味乾燥な曲利用や、音楽もなにもない映像だけなら
データをそのまま共有した方がましだろう。

私が仮にアーティストだとしたら、
各地の学校の卒業記念に自分の曲が入り込み、
それぞれの年月の中に、それぞれの記憶として刻み込まれる方が、
幾ばくかの著作権料を鬼気として管理するよりも
よっぽど芸術家冥利に尽きるだろう。

そもそも法は、「Open Texture」。
「ざる」のようなもんだろう?

1㎞たりとも速度制限を超えない運転者がいたら、会いたいものだ。
逆に、20㎞も30㎞も違反する危険運転は、捕まっても当然というものだ。

「構成要件該当性」「違法性」「有責性」、なんて話もあったね。

ボランタリーに作成される子どもの写真・動画DVDの
どこに、「違法性」や「有責性」を求めることができるのだろう。

どなたか、
Copy Left に引きずられる私に、
納得のいく説明を聞かせて下さい。

| | コメント (3) | トラックバック (0)
|

司法試験の合格者発表を受けて

昨日いわゆる新司法試験の最終合格者が発表された。

本日付の新聞各紙の報道によれば、
過去の実績を基に、
実績の低い法科大学院への文科省の補助金も減額されるとのこと。

私のメインお仕事をしている大学に付属する法科大学院もそれに含まれており、早晩閉鎖なり縮小なり、統合なりの再検討を余儀なくされることだろう。
だとすれば、
当然ながら学部に付属し、法科大学院への進学をメインの一つに据えている私の担当する部署も、その内容の再検討が必要になるに違いない。
学部のアイデンティティーとして法曹を目指すのか、そのために法科大学院進学を据え続けるのか、止めるか、他進学・希望との両立や選択肢の一つとしてのバランスをどの程度に考えて行くのか。

進学塾・予備校講師として、あるいは資格試験や公務員採用試験対策予備校にも関わった私の経験からすれば、おおざっぱに言ってしまえば、
「頭の良い子は、放って置いても合格する」
「頭の悪い子は、手をかけ時間をかけねばならない」
その間に、
また様々に不確定要素が関わるのだが、
「頭の良い子」が「勤勉さ」と結果としての「理解力」に繋がり
最終結果としての「偏差値」なり「高得点」なり「合格」に繋がっているとすれば、
もはや偏差値で輪切りされ序列化されつつある
大学入試と法科大学院入試を考えれば、
有名大学の就職率が良かったり、
有名法科大学院の合格率が高いのは当たり前。

逆に、底辺大学や、底辺法科大学院の合格指導に
時間と手間がかかるのも当たり前と言うことになる。

しかし同時に、
この「頭の良さ・悪さ」や「偏差値の高低」は、
まさに学習に対する勤勉さと、学習作法・やり方に関わっているとも考える。
だから、
たとえ二流大学であろうと、底辺大学であろうと、
その手ほどきによって、
思わぬ学生の能力の伸びを目にする魅力やカタルシスが、
「喜び」があるのだ。

個々人の基本的な能力やその深度に違いがあることはもちろんであり、
それに対応する学習の作法や仕方も、その指導の仕方も千差万別なのが実感だが、適切な学習の仕方や作法が身につき、勉学に対する勤勉さが身についた学生を見ることは、そして結果としてのそれぞれの目標達成の姿を見ることは、教育者としての代えがたい魅力だ。

勉強のべの字も考えず、スポーツや部活に明け暮れ、
何かの縁で私達と出会い、無理矢理本を読まされ、書いたものには赤字を入れられ、受けたくもない試験を受験させられ、少しずつ自分の目標を見つけ、努力していく学生を、その端緒において関わることができるのは、難しいと実感しながらも、本当に楽しいことだと思う。
(法的帰結も推論過程も、ガリガリやり合う必要も無いしね。)

昨晩、長い年月をかけ、権限も限られた状況で積み上げ改良してきた私の部署の講座を、全て受講し、(私たちはその事でたたかれもしたのだが)別の法科大学院に進学していた学生から、合格の知らせが届いた。

もちろん朗報だけが全てではないだろう。
彼と同様に受験し続けている学生がいることも、また今年が初めての受験になる学生がいることも記憶している。(連絡が無いことは当然として。)
公務員試験が思うような結果にならない学生からの相談もあった。

上がったり、下がったり。

自分の子どもでもないのに、結果に一喜一憂するのは、研究者としてはばかげたことなのかも知れないけれど、
教育者としては、致し方ないと思うし、まさにそれが魅力なのだろう。

自分がそうであるように、
「先生」なんて、卒業してしまえば、さっぱりと忘れてしまう存在なんだけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

さっぱりすすまねー

アカデミズムもばかげたことが多く、
実社会ならまだましかと飛び込んだのですが、
飛び込んだ方向が悪かったのか、
ばかげたことは多々起こるもんですなあ~(^u^;)ハァハァゼェゼェ…。

で、予定の作業は遅々として進まず、今日は愚痴こぼしです。

子どもの塾の送り迎えですらきちんと分担し、
(そりゃ多少は足りないかも知れませんが)
学究仕事でも、実践活動でも手を抜かず(にやってるつもり?)、
論文も書こうと努力しているのですが、
(そりゃー家じゃー、寝っ転がって映画も見ますが・・・)
本日は子どもの勉強までも見なさいとのこと。

家の草刈りもあれば、
子供会のお手伝いに、野球チームのグラウンド草刈り。..

世のお父さん方!(お母さんでも良いのですが)
俺は偉くはないのでしょうか?
何で、逆ギレされねばならないのでしょうか?

偉いねーって誉められたければ、
俺のきつさこそ、誉めてクレー!! って、
いつも通り卵が先か、鶏が先か?

って、途中で、普段毎日などかけたことのない、掃除機かけなんかにくるじゃね~。
なに、蚊が入るから窓閉めろ?
いつもはたばこ臭いから、あけろだったじゃね~カー~。

そんなこんなで、
今年のぶり返しの暑さの夏もくれて参ります。

実践活動最盛期中故、苦手な財務表のお勉強もあり、
娘のお勉強指導も加えられ、
父も母も思い返すこともなく、盆も過ぎ去り、
まだまだ、熱~い夏ですねえ。。。

追伸:毛越寺のカウント・ベイシー楽団公演

聞きに行きたかったよ~!!
(と言うことで、行けないこと確定。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »