一昨日の朝日新聞からだと思うが、「今子供たちは」という特集記事で
ある吹奏楽部の活動を紹介していた。
指揮に当たる「大人」は、特に具体的訂正点を示すことなく、生徒たちが自主的にだめ出しの箇所の改善点を考えていくという内容だった。
ちょうどその頃、津波の被害を受けた陸前高田市の小学校からの礼状を抱えていたこともあり、それへの返礼を書きながら、高校時代に同じ「吹研」で活動した、その学校の副校長を務める友人のことを考えていたこともあり、ある種の感慨を覚えながらその記事を読んだ。
あの頃は、ちょうど指導者が赴任していないという当時の高校の特殊な事情が絡んだのかも知れないが、我々の所属した「吹研」は、部長とコンマス、各パートリーダーと、そして学生指揮者を中心とした日常活動とコンクール出場という、今でもそうだろうが、県大会常連校や強豪校には珍しい体制で運営されていた。
先生の役目は、合宿やコンクール出場の際の介添え役や付き添いといったアドバイザー的な役割に限定されていたのではないかと思う。
当然に、様々な活動でも日常練習でも、演奏解釈を巡る問題でも、無駄な対立や問題発生は日常茶飯だった。
変拍子の連続するその年のメインに選んだ曲の全体練習で、学生指揮者(私だ)の無能の故に、演奏が崩壊して止まってしまうと言うのは、その年の定期演奏会のわずか数周前にすぎなかったように記憶している。
それぞれに歳を経て、少しばかりの余裕ができた頃、
未だに演奏に関わるものもおり、学校教員として指導に関わるものもおり、私のように全く関係を断絶したものまで、自分の子供のような年代の後輩たちの練習と演奏に接する機会があった。
大学で経験したという先生指導の教導に、元気の良い「はい!」という全員そろった返事が、またその響きが心地よくはあった。
しかしその後の一杯飲みながらの、教員をしている同輩の、あれが理想だと言わんばかりの一言には、強く反対を評せざるをえなかった。
自分たちと今を比べて、どれが優れていると言うつもりはない。
しかし、
結果が稚拙であろうとなかろうと、
我々は「自分たちの音楽」を奏でたのではなかったか?
それが私の言いたかったことだろう。
型どおりの楽理理論や型どおりの楽譜解釈を超えて、自由な我々自身しか為し得ない演奏は、「稚拙な学生解釈」だからできたのではないか?
君の工夫を生かす演奏は、あの演奏解釈だからできたことではないのか?
「ここは、おまえに任せた」という演奏は、あのやり方だからできたことではないのか?
それが伝えたかったことだろう。
知識や型の伝達によって、表面上の体裁はいくらでも整えることができる。
しかし、
そもそも「新しい問題」が「何」であり「なぜ新しい」のかは知識や型からは出てこない。
新しい問題に解答するには、知識を生かす知恵が必要だ。
それは教えられるものではなく、自ら身につけるべきものだ。
思えば、「吹研」時代に、幾人かの同輩はそれを身につけて行ったのだろう。
そうであるが故の吹奏楽「ケンキュウ」部という事か。
「ブラバン」と言うな。「スイケン」に、コダワリを持て。
優秀と言われる人が、ジャーゴンのように専門用語を振り回し、何も解決しないのを見るにつけ、難解な法律用語や哲学用語を振り回す学生が、その対象たる普通の人の生活やその痛みに盲目なのを見るにつけ、
他方で、かつてない津波の被害に、迫り来る高波から「二十年ぶりに、けつに火がつく全力疾走!」と笑いながら全校生徒を救った友の笑顔を思い出すにつけ、
新聞記事から、自ら考え、答えを出すそのことの大切さに、
高校時代の「吹研」を思い出してしまった。
後輩たちは、今も「ケンキュウ」しているのだろうか。
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